本記事は、シリーズ記事『シュテムターン は必要か?』の第2部です。

記事単独でも読んでいただけるように構成していますが、あらかじめ第1部をご一読いただくことで、本記事の背景や問題意識をより立体的に捉えていただけるかと思います。

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雪の軌跡として

「シュテムターンは必要か?」は、簡単にYesかNoで答えられないという問いであるというのは、前の記事で触れたとおりです。
しかし、それでもなお「必要なのか、不要なのか?」を問われるのであれば、雪の軌跡は、「必要である」という立場をとります。

ただしそれは、どのようなシュテムターンであっても必要だ、という意味ではありません。

ここでいう「必要である」という立場は、シュテムターンを技術の単なる「一つの型」や「通過儀礼」としてではなく、目的・段階・運用条件を明確に限定したうえで、上達の手段として考えた時の話です。

日本のスキー教育の文脈では、この「限定条件」が十分に共有されないまま、シュテムターンという言葉だけが先行して使われてきた場面も少なくありませんでした。

「スキー指導の体系を考えた時に、上達を形作るピースの一つとしての話か?」
「初心者から上級者まで、困難な環境でも安全に滑り降りるための実践的な技術としての話か?」

この二つの視点の切り分けが曖昧なままであったことが、シュテムターンを巡る評価や議論を、何度も揺り戻させてきた要因の一つだと考えられます。

日本でシュテムターンは、どう位置づけられてきたか

日本のシュテムターンは、長い間、初心者から中級者への橋渡しとして、スキー教育の中で一定の役割を担ってきました。

一方で、その位置づけは、常に一貫していたわけではありません。

時代によって、シュテムターンが上達に不可欠な技術として扱われた時期もあれば、逆に、その役割が曖昧になり、あまり積極的に用いられなくなった時期もありました。

特に2000年代以降は、プルーク や体軸の内側への傾きを中心に上達過程を説明しようとする考え方が強まり、シュテムターンは、技術体系の中で明確な役割を与えられないまま位置づけられていたように見える場面もあります。

問題は、どの技術を採用したか、という点そのものではありません。
制動・推進・回転といったスキーの要素を、どの段階で、どのような役割として教えるのか。
その設計の文脈が十分に共有されていたのかどうかが、重要なポイントです。

「必要か/不要か」では簡単に済ませられない

シュテムターンを、「必要か」「不要か」という二択で整理しようとすると、議論はどうしても噛み合わなくなります。

同じ「シュテムターン」という言葉を使っていても、

  • どのような操作を指しているのか
  • どの段階の学習者を想定しているのか
  • 何を目的として用いられているのか

が異なれば、その評価が変わるのは自然なことです。

問題は、シュテムターンという技術そのものではなく、どのように理解され、どのような文脈で使われてきたのかという点にあります。

現代において問われるべきなのは、シュテムターンを残すか、消すかではなく、上達過程の中で、どの役割を担わせるのかという、整理の仕方なのかもしれません。

判断の軸 ― どのような場合に「上達に必要」と言えるのか

雪の軌跡が、シュテムターンを、「プルークとパラレルをつなぐ橋渡し役として」上達に必要な技術と判断するのは、次の条件が満たされている場合です。

  • シュテムの操作が、減速そのものを目的とせず、次のターンへ向かうための回転方法 として使われていること
  • パラレルターンへとつながる運動の連続性が保たれていること
  • スタンスや操作が過剰にならず、後に捨てる必要のある動きを不要に増やしていないこと
  • 斜面状況や環境を選び、限定的に運用されていること
  • 最終形ではなく、明確な通過点として共有されていること

これらの条件が満たされているなら、シュテムターンは今なお、上達過程において有効な手段であると考えられます。

一方で、これらの条件が曖昧なまま用いられるなら、シュテムターンは、上達の妨げになる可能性も否定できません。

「海外では使われていない」という見方について

「海外ではシュテムターンが使われていない」という点が、不要論の根拠として挙げられることがあります。

しかし、ここにはいくつかの誤解が含まれています。

それは、「シュテムターンという言葉」が各国の教程で使われることが少なくなっただけで、動作や概念としては残っているという事です。

つまり、言葉が使われているかどうかと、技術や考え方が存在しているかどうかは、必ずしも一致しないということです。

重要なのは、名称の有無ではなく、どのような意図で、どのような操作が育てられているかです。

現に、歴史的にはシュテムターン不要論を始めに主張し始めた、フランスの教程の中にさえもシュテムターンは残っています。

海外で成立してきた考え方や操作を、日本の文脈に合わせてどう再整理するのか。
その検討を省いたまま「残す」「消す」という二択に還元しても、本質的な整理にはつながらないでしょう。

小結 ― 雪の軌跡としての整理

日本で使われ教えられてきた「シュテムターン」は、歴史的にも、教育的にも、不要な技術ではありません。

しかしそれは、無条件に肯定される存在でもありません。

雪の軌跡は、シュテムターンをはじめとした様々なターン技術は常に検討と再設計を必要とする、条件付きの教育的技術として位置づけます。

ですので、真に問われるべきなのは「シュテムターンを残すか、消すか」ではなく、日本のスキー教育の中で、どの役割として位置づけ、どこまでを担わせるのかという点です。

次の問いへ

ここまでの整理を踏まえると、また次の疑問が湧いてきます。
それらについては、関連する記事でまた深掘りしていきます。

※本記事は、公開後の反応や議論の蓄積を踏まえ、内容の整理および表現の一部を見直しています。取り上げている論点や構成の方向性に変更はありません。